最近、ビジネス書とかもそうですが、古典を読みたい衝動に駆られることが多く、今回はニッコロ・マキャベリの「君主論」を読んでみました。
重要に感じたところを引用しつつ、現代にも活かせる「リーダーの取るべき行動とは」という視点で感じたことを書いていきます。
怖いリーダー?優しいリーダー?
あなたはもし自分がリーダーになったらどちらのタイプでしょうか。
これは人によって分かれますよね。元々ストロングマネジメントなタイプのリーダーも世の中にはたくさんいます。
どちらが正解ということはないと私は思っています。
周りの環境によって、適切なリーダーシップスタイルは変わります。コンティンジェンシー理論ですね。
[blogcard url=”https://hrjob.info/contingency_theory_leadership/”]さて、君主論では基本的には「怖いリーダー」を推奨しています。例えばこちらの一文。
愛されるよりも恐れられる方がはるかに安全である。
まさに、どストレートに「恐れられるべし」と言い切っています。
愛される行動というのは、一歩間違えば敵も作りやすいのは事実です。
部下の全員を平等に愛するのはなかなか難しいでしょうし、リーダーが与える愛に偏りがあれば、それはチーム内に不満の種を植え付けます。
それよりも全員から平等に恐れられている方が、自らの地位は確固たるものになるというところでしょうか。
しかし、恐れられるような行動をしては、敵も作りやすいのでは?と思いますよね。
マキャベリはそれに対しても回答しています。
それにつけても注意すべきは、人間は寵愛されるか、抹殺されるかそのどちらかでなければならないということである。
なぜならば、人間は些細な危害に対しては復讐するが、大きなそれに対しては復讐できないからである。
恐ろしいワードが出てきてますね・・・
つまり、恐れられるのであれば徹底的にやれということですね。
中途半端に優しさ、厳しさを両立させようとするのが一番まずい。
そして、先述の通り恐れられるためには、やはり厳しさを極める必要があると。
復讐しようにも、恐怖で復讐できないほどに恐れられるのだと。ちょっと現代社会ではさすがに通用しませんね(笑)
さらにはこちらの一文。
自由な国制に慣れ親しんだ都市の支配者となった者がそれを破壊しない場合、自らがかえってこの都市によって破滅させられるのを待っているようなものである。
こういうことは現代社会でも、規模は違いますが起こり得ますね。
例えばベテラン社員が多く、割と自由にやっていた部署に新任の管理者がやってきました。ベテラン社員には今までのやり方があるので、管理者の指示をなかなか聞いてくれません。
管理者にとってはストレス極まりないですよね。
ただ、そこでベテランに迎合してはいけません。君主論に従うのであれば、強権発動によって古いやり方から合理的なやり方に変えていかなくてはなりません。
反対にあっても力づくで押し切る。メンバー入れ替えもありかもしれません。
これができないと、逆に管理者が潰されてしまう。これは、少し現代社会でも実際にありそうな構図ですね。
そのような場合、どうするのが良いでしょうか。もちろん君主論のように強権的なリーダーシップでグイグイ行くのも一つです。
一方で、とはいえベテランを立てながら、自分は黒子に回る選択をする人も多いでしょう。
想像してみましたがストレスはかなりかかりそうです。ベテランからナメられる危険性も大いにありますね。
ただ、君主論パターンもそれなりのストレスは伴うので、どちらが自分にとって良いかはよく考える必要がありそうです。
君主論では荒療治は短く、一気に
先述のように、恐れられることを意識していれば、当然過激な言動を意図的に取ることも増えるでしょう。
ただし、マキャベリはそのような過激・残虐な行為について、次のように述べています。
残虐な行為を上手に用いる場合とは、自らの地位を安全ならしめる必要からそれを一度用い、その後はかかる行為を常用せず、可能な限り臣民の利益の擁護へと統治方針を転換する場合といえよう。
つまり、最初の一発でガツンとかまして、いざとなれば厳しい手段も取るぞということを見せつけるのですね。
その後は、厳しいだけでない合理的な行動を取っていきますが、最初に部下に潜在的な恐怖を植え付けるのですね。
「潜在的な」というのがポイントです。部下に恐れられているだけでは、良い仕事はできません。なので、表層的に恐れられると支障が出てきます。
あくまで浅く、普段は気づかない程度の傷を付けるようなイメージですかね。
また、下のようなことも書いています。
加害行為は人々がそれをあまり味わわず、したがってあまり傷つけられないように一気に行われなければならず、これに対して恩恵は人々がそれをよりよく味わうように少しずつ与えられるべきだからである。
つまり、意図的に見せる怖さ・厳しさというのは、長期にわたって常用するのではなく、短く・強く見せることが肝心なのです。
そこで自分の力と覚悟の程を部下にしっかりと認識させ、主導権を握るのですね。
変化に敏感でありつつも、うろたえぬこと
君主は風のままに、運命の変化の命ずるところに従って自らの行動を変更する心構えを持つ必要がある。可能な限り好ましい行為から離反せず、しかし必要な場合には悪事に踏み込むことができる心構えを持つ必要がある。
リーダーは変化には敏感でなければなりません。取り巻く環境の変化を敏感に感じとり、組織の舵を取る必要があります。
そのために、時には鬼になる必要もあるかもしれません。
それでも、「運命の変化の命ずるところ」によってその行為が必要であると信じるならば、実行に移すのがリーダーなのです。
人間は自らの意に従って愛し、君主の意に従って恐れる。したがって、賢明な君主は自らの自由になるものに依拠すべきであって、他人の判断に依存してはならない。そしてその際、憎悪を招かないようにだけ配慮すればよい。
また、リーダーは他人の判断をよりどころにしてはなりません。
自らの目で見て、聞いたことを信じ、自分で決断を下さなければなりません。それが他人から見て冷酷非情と思われるものであっても。
ただ、その際に憎悪を招かぬようにだけ気を付ける必要があるそうです。
これは、先述の「加害行為は短く・徹底的に」という内容に通ずるものがありそうですね。
泰然自若
なによりも君主たる者は臣民たちと生活を共にし、善悪いずれかの出来事が起こっても変わらぬ行動をすべきである。
最後に、この言葉が最も私の印象に残りました。
ここまで、残虐だの非道だの散々書いてきたマキャベリですが、リーダーとして認められるかどうかはこの一文が本質なのではと思います。
「君主たる者は臣民と生活を共にする」すなわち、リーダーは部下から離れた存在であってはならないということです。
部下が助けを求めたいとき、相談したいときに、すぐに声を掛けられる場所にいなくてはなりません。
また、自分の行動指針を周りで起こる出来事に左右されて曲げてはなりません。
その場その場で、気分で判断するリーダーは信頼されません。
常に自分の判断・行動に軸を持ち、それは何があってもブラさないこと。
素晴らしい出来事があっても、浮かれすぎずに兜の緒を締めなおすこと。危機が襲ってきても、取り乱すことなく対処に当たること。
これができることがリーダーとしての重要な資質であると私は感じます。
君主論を読んでの感想
「君主論」から印象的だった文章を抜粋しながら、考えたことを書いてきました。
改めて、自分が書いた文章を読み直しても、これだけではとても偏った考え方だと思います。
前提条件として、①国を治めるレベルの君主の話であり②ボトムアップなどという概念が無かった時代の話であるということは念頭に置く必要があります。
現代のリーダー論としてはなかなか過激ですし、トップダウンの組織であることが前提です。
ボトムアップが賛美される風潮が強いですが、トップダウンも時勢によっては優れた機能を発揮します。
そういう局面ではかなり頼りになる教えかもしれませんが、やはりこれをそのまま取り入れるのは現代においてはなかなか厳しい部分もあるのが現実です。
ですが、考え方の参考になる文章は多くありましたし、リーダー論のひとつとして自身の血肉にしていく所存です。
おわり
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