はじめに
本記事には第二次世界大戦中のドイツ政府によるユダヤ人迫害に関する記述があります。不快に思われる方は読まれないようにお願いいたします。
また、あくまで表題の書物に関する私個人の感想・考察であり、なんら政治的な意図や主張を持ったものではないことを予めおことわりしておきます。
「エルサレムのアイヒマン」の概要
本書、「エルサレムのアイヒマン 〜悪の陳腐さについての報告〜」は著者であり、高名な政治哲学者であるハンナ・アーレントの著作の中でも問題作として取り上げられた本です。
そのためか、決して名著として有名とは言い難いかもしれません。
私自身、この本の存在は別の本の中で少し触れられていたために知りましたが、それまではタイトルさえも聞いたことがありませんでした。
まず、アイヒマンとは第二次世界大戦中のドイツ政府すなわちヒトラー率いるナチスの中でユダヤ人を殺害のための収容所へ移送する実務の責任者を務めた人物、アードルフ・アイヒマンのことです。
ナチスによるユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)では、約600万人のユダヤ人の命が奪われたと言われています。
この本は、そんなアイヒマンが終戦後の1960年、ユダヤ人国家であるイスラエルの諜報機関に拉致され、首都エルサレムで行われた裁判の記録です。
裁判の記録と書きましたが、この本の裁判の記録部分は相当に難解です。注釈、補足のオンパレードな上に、括弧書きなども凄まじい量です。
おまけに、一般人にはまず耳馴染みのないナチスの階級名、組織名、人物名などが大した説明も無く大量に登場します。
1文1文も長く、お世辞にも読みやすいとは言えません。私も読書量は少なくない方だと思っているのですが、私の読解力では到底全文を細かく理解することはかないませんでした。
そのため、この本の大部分はかなり飛ばし読みしたことを告白しておきます(笑)
しかしながら、この本の真髄はその大部分を占める裁判の記録ではなく、筆者独自の意見が詰まった「追記」とそれを分かりやすく解説してくれる「解説」の章にあると考えます。本記事もその部分に焦点を当てながら書いていきます。
アイヒマンとはどのような人物か
まず、簡単にアイヒマンがどのような人物かを書いておきます。
上述の通り、アイヒマンはナチスによるユダヤ人大量虐殺において、重要な任務を遂行していました。
簡潔に言えばドイツ国内に複数あったユダヤ人を殺害するための収容所にユダヤ人を計画的に移送するという「業務」を統括していたのです。
「業務」という書き方をしたのは意味があります。極めて恐ろしく、かつ不可解ではありますが、彼は自分の意思でそれを行っていたわけではないのです。
アイヒマンは決して悪の権化のような男ではなく、血も涙もない冷徹な男でも無かったのです。本文中の言葉を借りれば「如何に努力してみてもアイヒマンから悪魔的なまたは鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能」というような男でした。
決して愚かではなく、また一般的な倫理観もおそらく持ち合わせていたと思われます。
特徴的な部分を挙げるとすれば、ナチスの中での昇進に対しては強い執着を持っていたことです。
この出世欲は彼がこのような非人道的行為に加担する背中を押したのであろうことは想像がつきます。
アイヒマンはなぜ悪であるのか
ちなみに、アイヒマンは裁判の結果として死刑に処されます。
この判決に対して疑いを持つ人は多くないでしょうが、当時は死刑でさえ生ぬるいというような論旨の批判も一定数あったようです。
現在の世界で殺人が罪に問われない国は皆無もしくは極めて少数です。
戦争の場合の軍隊における殺人は少なくともその国の国内法においては例外的に扱われますが、ホロコーストに関してはナチスとユダヤ人は決して戦争関係にあったわけではなく、基本的には一方的な虐殺です。
「人道的な罪」という言葉も本文中には出てきます。裁判ではアイヒマンはユダヤ人の大量虐殺を指揮し、実行したということを罪として問われます。
それに対するアイヒマン側の反論としては、「当時のナチス政権下ではユダヤ人の虐殺は全く自然なことで、違法でもないという特殊な状況であった。つまりは、”上の命令に従って”やっただけであり、そこにユダヤ人を憎む気持ちや、悪の動機は一切なかった。ただそうするよりほか無かったのである」というような趣旨のものでした。
それに対する著者なりの回答を本文から引用します。
君が大量虐殺組織の従順な道具となったのは、ひとえに君の不運のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それゆえ積極的に指示したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。
罪を犯していない人間を、しかも想像もつかないほどの多数の人間を殺害するということは、悪として裁かれるべきという意見は大方の人の見方が一致するかと思います。
自分の意思であろうとなかろうと、どのような状況下に置かれていようと、どんな権力者からの命令であろうと、抵抗することなく服従し加担したことは紛れもなく罪であり、死刑に値するというのが著者の考えです。
私たちもアイヒマンになりうる
さて、ここからが本記事のメインの部分です。
著者がこの本で言いたかったことは、私はこれだと思っています。つまり「現代社会に生きる私たちも、一歩間違えばアイヒマンになりうる危険性を孕んでいる」ということです。
この本の帯にも書いてあるのでかなり重要なセンテンスであるのですがこんな一文があります。
まったく思考していないこと、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ
アイヒマンは決して根っからの悪人ではなかったし、ユダヤ人を絶滅させてやりたいなどという願望を持っていたわけでもありませんでした。
また、善悪の分別が全くつかないほど愚かでもありませんでした。
ただ、著者曰く彼は全く思考をしていなかったのです。
彼の頭はナチス内での昇進のことでいっぱいで、そのためにただただ指示された業務を淡々とこなしました。その行為が人道的に正しいか否かなど考えもしなかったのです。
そしてその結果として彼はホロコーストという世界史上でも類を見ない大量殺人の重要な歯車のひとつとして機能したのです。
このことから著者が警鐘を鳴らしたのは、できあがった仕組みを無批判に受け入れてその通りに行動することの恐ろしさです。
当時のナチスのホロコーストなどはまだ分かりやすかったかもしれませんが、現代社会にはもっともっと巨大で複雑な仕組みが沢山渦巻いています。
そして、そんな社会に生きる私たちは自分たちでも自覚の薄いままに様々な仕組みの中に組み込まれながら生きています。
ですが、その仕組みは本当に正しいものでしょうか?そのように疑ってみたことはあるでしょうか?
600万人の罪なき人を殺害するほどの大それたことではなくても、私たちも知らず知らずのうちに仕組みの中の歯車の一つになり、自分の意図しないような結果を生み出し続ける手助けをしてしまう可能性があるのです。
「服従と支持は同じものである」
著者は「政治においては」という前置きをしていますが、決して政治だけの話ではないと私は感じます。
あとからいくら「そんなつもりはなかった」と言い訳しても、服従していたという事実は消えません。
自分が今従っている「仕組み」は10年後の自分にも胸を張れるものでしょうか?もっと言えば、自分が今取っている行動は「仕組み」に取らされている行動ではなく自分の意思が反映されたものでしょうか?
そんな問いかけを著者は私たちに投げかけているのです。自分の意思をはっきりと持つことの大切さは、社会が複雑化している今こそ増してきています。
自分を常に省みながら自分の行動を規定できる人間でありたいと強く感じました。
おわり
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